ペンネームQamos

YUITO

サイトの代表者、ブログ筆者

手仕事ディレクター

こんにちは!本ブログの筆者のYUITOです。

都内のメーカーで会社員をしながら、時間を見つけて自然素材(今は竹)を使ったモノづくり製造したり、家庭で出来るDIYや、日本の良い手仕事に関する情報、自然環境に配慮したモノづくり情報、などを配信しています。

自然素材を使った、、などというと、自然に近いところに住んでいるのでは?、、と思われるかもしれませんが、
日本一人口の多い横浜のマンションの一室に住んでおります。

どこにでもいるような、東京の会社員がモノづくりとか、情報の発信にいそしんでいるのか、、

おいおい記事やコンセプトページに書いていますが、一言でいうと、

「安い・早い・便利」だけで、モノが作られ売られ捨てられる、というサイクルを少しでも変えていきたい、という思いからです。

また、昔から自分の手でもの作りをすること自体が好きだからでもあります。
細かい作業をするのが苦手な人はたくさんいますが、私は細かい作業をするのが好きなのです(笑)。作業をしているときは思考も集中モード(ゾーンというやつ?)に入れます。さらに、自分の作品で、人が驚いたり、感動してくれると、テンションは⤴⤴です。(モノづくりの成功体験をしてきた人は、わかるのでは!?)


同じような気持ちの人はもちろん
環境や地域を考えながら自分の使うものを自作したい、趣味でDIYを楽しみたい、という人に届き、共感してもらえると嬉しいです。

では。。

Profile Picture

どんな人の活動や思考も、その人の歴史に大きく影響をうけて出来上がっている、と思います。
なので、より私を知ってもらうために自分史を記載しています。お時間あれば、お付き合いのほど💦


-----------------詳細なプロフィール -----------------

0歳:大阪府枚方市で生まれました。大阪・京都・奈良に挟まれた中規模の郊外の町という感じです。両親は愛知出身のため家庭では標準語でした。(そのせいで、私はソフトな関西弁に仕上がっています。)家庭の経済事情は中の上というところ。両親の親(私にとって祖父母)が比較的裕福だったので、その恩恵は多かったと思います。

1~5歳(幼少):どちらかというと、おとなしいタイプ。近所の友達に泣かされて帰ってくることも度々。母親がいわゆる「教育ママ」だったので、日本語もままならないうちから英会話家庭教師付けたり、ピアノしたり、習字いったり、、、。近所のコに比べて、やることが多かったと思います。近所で遊ぶときも、押しが強い方ではなかったので、友達に後からくっついていくようなタイプでした。

6~9歳(小学生前半期):今の活動を形成するのに大きな影響がを与えた時代の一つ。
前半期は相変わらずおとなしい子供でした。当時、「ドラクエ」やアニメでは「聖闘士星矢」が流行っていた時期で、成りきりごっこをよくやってました。
カラテで「えい!やぁ!」にも飽きてきたころ、段ボールで剣や防具を作って遊び始めるのがハヤリ始めました。周りの子は、だいたいの剣の形をカッターでざっくり切って、戦いごっこを始めるのをよそ目に、見た目をかっこよくしたり、剣を収納できる装備を付けたり、工夫をモクモクするタイプのコでした。それが結構評判がよく、周囲から一目を置かれた存在になったのを覚えています。
自分としてはとくに普通のことをやっているだけだったので、少しの驚きとともに、自分に自信をもったのを覚えています。当時、レゴブロックも家には山盛りあって、一日中遊んでいたので、工夫して何か作るのが好きだったのが影響してるのかな、、と思います。
ちなみに、ファミコンは両親が反対で家にありませんでした💦何度、だだをこねたことか。。

9~12歳(小学生後半期):前半から一転。今に続くレール始まり。
前半から一転。教育ママの影響で、当時の片田舎では珍しく小学生から進学塾に通い始めました。それまで(言われるがまま)通信教材で勉強していたため、なまじ勉強ができたので、すんなり入塾。ここから、周囲の友達とは少し違う日々が始まります。平日週3~4日、夏冬休みはほぼ毎日塾通い。日々膨大な宿題を片付け、友達と外で遊ぶことも極端に減りました。車でしか行けない塾だったので、毎回車で送り向かいと夜の弁当作りで、親も大変だったと思います💧。
心の状態は、学校の勉強は簡単に100点を連発できたため、自信に持っていた半面それを鼻にかける小学生だったと記憶しています。(先生に偉そうなことを言って嫌われていてたな、、今思うと。)
小学生でしたから「別にこの進学校に行きたい」という明確な意思はなく、塾で机を並べる同志たちに負けないために、また進学塾に行くことを公言していたことに辻褄を合わせるために勉強していたんですね。自分が主でなく、周りがどうなのかを考えていたな、今考えると。
まぁ、結果 大学レベルの授業料がかかるお金持ち進学校に合格することになります。

13~15歳(中学生):鼻を折られ、、。もっとも暗闇の時代
大阪府下から生徒が集まってい来る私立中(いまはダンス甲子園の優勝常連で有名みたいですね)に通学。これまでと生活だけでなく学力のレベルが違い、1年ではかろうじて「普通」をキープしていた成績も、2年に上がると一気に転落(学年ワースト10入りも達成💦)。部活動も、小学校でかじっていたサッカー部に入りましたが、練習がきつく、Jリーグ開幕から間もなかったため、みんなのやる気レベルも高く、そうそうに脱落してしまいました。
かといって特にやりたいこともない、、家に帰っても親がうるさいので、、ウソをついてぶらぶら暇をつぶしていました(電車で一日中往復したり、家の近くの山道を散歩したり)。周囲と金銭感覚も違い、、居場所がなく、かといって何をすればいいのかもわからず、精神的なバランスが乱れて卑屈になっていました。(自分に「劣等生レッテル」ぺったり📜)

16~18歳(高校生):居場所を見つけて立て直すも、妥協する場面も。
中高大一貫校のため、そのまま高校にエスカレート。このままではさすがにまずいと思い、譜面が読めることから吹奏楽部に入部。友人の激しい勧誘で入ったのですが、他人と音を調和させて一つの作品を作ることは意外に楽しく、「これはこれで良いな」と思いました。何より放課後に居場所が見つかったことに安心感がありました。
もう一つ、2年の後半から理系文系で選択式授業が始まりました。この頃には中の上くらいは成績が持ち直してきており、得意な理系を選択。もう一つの居場所を見つけた気がしました。生物の先生がすごく斬新で面白かったことを覚えてます。
居場所を見つけて持ち直した半面、将来については妥協がありました。図書室で唯一置いていた手塚治虫の漫画の「ブラックジャック」に影響を受け、国公立の医学部を目指し通信教育を始めました。ただ部活をしつつ、(強制力のない)通信教育で突破できるほど医学部は甘くはなく、途中で断念。「青春は勉強ではなく部活だ!」と言い訳したことを心の片隅に残しつつ、大学の工学部へ進学。

19~24歳(大学・大学院生):ごく普通の大学生、人との出会いで気づかされ
家から原付15分の大学に通学。日々勉強はそこそここなし、軽音サークルやチェーン店バイト・家庭教師などに手を出したり、友人宅に入り浸ったり、まぁ、一般的な理系の大学生を送ってました。転換点とまでではないですが、友人と二人で野宿で広島まで自転車旅行したことは、気づきがありました。タダで素泊まりの交渉したり、ホームレスのおっちゃんと仲良くなったり。その他、一番長く続いた地元寿司屋バイトでは、店長(元ヤンチャしてた人)や、同世代の社員(現役ヤンチャしてた人)だけど、根はすごくいいヒトだったり。
これらを通して、自分が今 乗っているレールでなくとも人間にはいろんな生き方があるなんとか生きていくことは出来る人間力は見た目や周囲の評判だけではないな、、と気づいた大学時代でした。(今思うと、もう少し海外を見た方がよかった。)
大学入学時から院進学は決めていたので、生物化学系ゼミに進学。不規則な研究生活でしたがゼミ同期生とは一生の付き合いになるほど濃い時間を過ごしました(研究成果はまぁまぁ、まぁ成果が3年で出るほど研究は甘かぁない💦)
就職先は、食品系やディスプレイ関係など化学が多少でも活かせるところを中心に活動。関西の研究開発職を希望でしたが、まぁ研究開発を仕事に都会で暮らせるならいいかな、、ってことで、現勤務先を選択。

25~32歳(新米会社員):東京生活、「とにかく仕事で自分の存在価値を示す」を軸に
東京郊外にある研究所で勤務開始。初上司は人間味にあふれた方で、かつチャレンジングなことを応援してくれ、自らも飛び込んで楽しむタイプの人だったので、非常に活き活きとした社会人生活を謳歌。新しいPJを立ち上げる際も名指しでメンバーに加えてもらい(当時の上司とかなりもめたはず)、入社以来7年くらいは、大変でしたけど頭と体をフルに「良質なストレス」にさらして仕事してきました。この元上司に恩返しすることも仕事の動機の一つになりました。気づきというか得たものとして、製品ができるまで(材料・製造法選定、知的財産、試作、量産、リリース)までの基礎知識を経験・吸収できたのもこのころ。
半面、企業のモノづくりの原理原則は「客先・株主の利益」が第一であることも気づかされます。価格や納期のために大量に余剰な化石燃料を使ったり(環境目線)、社員は大事な休みを削って対応する場面があったり(仲間目線)。当然、利益が出ないとオベンチャラだけでは立ち行かないため、状況に合わせることは大事ですが、今の活動に対する芽生えにつながっていることが事実です。

31~今(中堅会社員):実働担当から管理する立場へ。
新規のPJも終了し、研究所で開発を実行する部門から本社で新事業探索や製造工場の管理・支援など数年置きに経験。開発部門に未練はありましたが、また新しい視点を得られると考え異動を決断しました。特に製造部門では、工場の現場の人たちのモチベーションが、それまで付き合ってきた会社員とは異なる(ロジカルよりもむしろパッションで動く!)ことに気づかされました。
以前よりも、コスト・利益中心の製造の考えが濃さを増し、「本当にこれが必要なものか、作っている人たちは幸せや誇りを感じているか、過剰要求ではないのか」を感ぜずにはいられませんでした。業務役割上の力学(ウチの会社の場合、顧客>営業>製造)でコトが進行している、そんな疑問が大きくなります。
もっと、求める人、作る人、を含めた関わる人(ひいては地球全体)が納得感や幸せを感じるような製品づくり」でないと、正直シンドイ。。。と思うようになります。約2年ほど前から社会起業などのセミナーに参加し始め、自分が何をすべきか(ときには会社の業務に追われてさぼりながら)を考え、活動を始めて現在に至っています。

たくさん(ちょっと自己満足的に)書いてきましたが、ここで何が言いたいか、というと、

ほんと一般的な学生・社会人生活だけど、何かを変えるためにちゃんと自分の頭を使って試行錯誤で行動すれば、きっと人生をもっと楽しく、主体的には生きられる(はず)ということ。

まだ何も成し遂げとげていないですが、過去を振り返り、自分の思いや気づきを噛みしめ、これからよい人生を歩むために、今後も活動をしていきたい、、そんなことを考えているYUITOです。

(なんか決意表明みたいですが)

成功実績も随時更新していきます。

オリジナル商品、お試しください